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私が3月11日に思い出したいこと

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正直、私のような者が何かを語るのは無責任だしおこがましくもありますが、私自身が忘れたくないのと、せめてこの日だけはずっと考え続けていくために書きます。
5年前の今日から生まれたすべての悲劇が、少しずつでも良い方向に向かい続けるように、心の底から祈っています。

 
正直なところ、私はどんな大災害も戦争も犯罪も「他人事」だと思ってきました。
自分が直接の当事者になった経験がなかったからです。
私にとっては東日本大震災が、はじめて自身を、少なからず「当事者」と認識した災害でした。

と言っても、自分や近しい人が東北で被災したわけではないし、実は私自身はあの揺れさえも全く経験していません。
だから「当事者」とは言いつつ、「被災者」と名乗るにはかなり抵抗があります。
今思い出しても、当時私が置かれた状況は何とも形容しがたい、微妙なものだったと思います。

 
2011年当時、私は千葉県の浦安市に住んでいました。
3月11日当日は偶然にも熊本の実家に帰省しており、浦安に戻ったのは翌々日13日の夜でした。

東北の被害や都心の帰宅困難は報道で目にしていましたが、浦安の状況はほとんど知らない状態でした。
ただ、埋め立てエリアが所々液状化しているという情報は聞き及んでいました。

空港から新浦安駅へ向かう電車の中、車窓から見たディズニーランドが真っ暗で、驚いたことを覚えています。
明かりが灯っていないディズニーランドを見たのははじめてのことでした。

駅に着くと、構内が砂まみれで、まるで砂漠みたいに砂埃が舞っていました。
道路は歪み、泥だらけで、所々水が噴き出していました。
このときは、この状況が浦安だけだとは思わず、「関東にもこんなに被害が出ているのか」と驚きました。

家に着いて中に入ると、棚という棚が倒れ、物という物が落ちていました。
手を洗おうと水道を捻ると水が出ませんでした。
ガスも止まっているようでした。

暢気なことに、このときも私は「ああ、関東全体で断水してるんだな」と思いました。
電気は通っていることもあり、「水もガスもきっとすぐ戻るだろう」と楽観的に考えていました。
普通ならトイレを心配する所ですが、私は元々トイレが驚異的に遠く、このときは翌朝どこか断水していないところでできればいいくらいに思っていました。
電気は通っていたこともあって、この時点では特に何も危機感を持ちませんでした。
TVに齧りついて、東北の被害に対して自分ができること、具体的にはとりいそぎの募金額を幾らにするかなどを悶々と考えていました。

そんなお花畑な頭で翌朝会社へ向かう訳ですが、都内に入って違和感を覚えました。
あれ、砂埃が舞っていないな、と。
道も歪んでいないし、地下水が吹き出している様子もない。
3/14時点の東京は、私には震災発生前と何ら変わりないように見えました。

お花畑の私も、この時点でさすがに予感することがありました。
会社に着いてすぐ同僚に尋ねました。
「水出ないよね?」と。
同僚は驚いた顔で聞き返してきました。
「え、まさかシモーネの家、水出ないの?」と。

浦安への引っ越しを決める際、特に新浦安エリアはほとんどが埋め立て地であることや、地震が起きた際は高い液状化率が予想されていることは知っていました。
でもそのときは「まさかそんなことは起きないだろう」と思っていました。
そもそも「液状化」とは具体的にどんなことかをほとんど知らなかったし、知ろうとも思いませんでした。
さらには、浦安市が液状化するほどの大地震なら、きっと都内一円どこに住んでいようと、同程度の被害を受けるだろうと思っていました。
要するに高を括っていたんです。

同僚の様子を見て、やっと理解しました。
どうやら自分の住む地域だけが被害を受けているらしいぞ、と。
実際にはお台場・豊洲・幕張など埋め立て地や、千葉県内陸部各地でも液状化が起きていましたが、そのときの私の活動圏では、浦安市だけが集中被害を受けたように感じました。

こうしてやっと事態に気付いた私は、浦安の被害状況をちゃんと具体的に調べ始めました。

まず上下水道については、市がすぐに断水復旧速報サイトをつくってくれていました。
新浦安エリアは全体的にかなりの液状化被害を被りましたが、被害規模は地区ごとにかなり差がありました。

当時私が住んでいたのは「今川」という地区で、最も液状化被害が深刻なエリアでした。
断水復旧速報サイトには、地区ごとに復旧見込みの目安が記載されていましたが、今川エリアは「4週間後」となっていました。

次に、翌朝近所を歩き、被害の様子を実際に目で確かめました。
信号や電柱が傾いていたり、住宅の入り口が泥で埋まっていたりしました。
さらに、自宅のほんの少し先にある住居は、全体が斜めに傾いてしまっていました。

このときはもう、テレビでも浦安の状況がかなり報道されていたと記憶しています。
ただ、その最もメディア露出している地区が自分の居住地だということには、このときはじめて気づきました。

私の住むアパート自体は、傾いたりヒビが入っていることもなく、目立った被害はありませんでした。
アパートで導入していたのがプロパンガスだったためか、ガスも比較的早く復旧した覚えがあります。
目下の問題は上下水道のみでした。
水が出ないことと、水を流せないこと。
上下水道ともに液状化の泥で埋まってしまい、地中の歪みで管も曲がったり破裂したりしていたそうです。
だから水だけ調達したとしても、それを下水に流してしまうと下水管がもっと詰まり、復旧工事を台無しにしてしまうという状態でした。

最も困るのがトイレ、そして入浴でした。
実際、私の場合、ここから約1ヶ月に渡って「トイレとお風呂を探し求める日々」を過ごしたわけですが、それは今思い出してもなかなか大変な日々でした。

最初は知人の厚意に甘えて泊めてもらったりもして、これは本当にありがたくとても助けられましたが、ずっとお世話になるわけにもいきません。
トイレは基本的には我慢し、我慢できないときは近隣に臨時設置された仮設トイレや、毎日のように郵便受けに支給される簡易トイレを使用しました。
入浴は、銭湯や漫画喫茶のシャワールームを渡り歩きました。
大型入浴施設やホテル等がときどき入浴サービスを浦安市民向けに格安提供してくれて、それを利用したりもしました。
体調や都合などでどうしても耐えられないときは、自宅に帰らず宿泊施設に泊まったりもしました。
平日に入浴するためには、会社を早めに出ないといけないのですが、終電帰りがデフォルトの職場ではそれも厳しく、どうしても入浴できない日もありました。

と言っても、私の場合は身軽な一人暮らしで、平日もほとんど都内の会社で過ごしていたため、随分凌ぎやすい状況だったと思います。
生活の拠点が完全に今川で、一軒家住まいのご家族などは、もっともっと大変な思いをされたと思います。
のちに自衛隊が派遣され生活用水を支給してくれたり、道路に臨時上水道も設置されました。
私自身はどちらも利用しませんでしたが、今川エリアでは多くの方がこれらを利用されたと思います。
家が傾いてしまった方や、事実上半壊してしまった方などの苦労は、さらにこれ以上であることは言うまでもありません。
今川地区では現在も、液状化対策の道路工事方針や費用負担の議論が続いている状態だと思います。

このようにそれなりに大変な状況でしたが、私自身には大きく2つの葛藤がありました。

まず一つは、自分や浦安市が被っている被害は、東北のそれとは比べ物にならないほど小さいものだということです。
家族や友人を失った人、家や財産を失った人、職を失った人、被曝リスクを抱えながら踏みとどまっている人。
対して私は、ただ上下水道が使えないだけの人。
実家で東北の被害を知ったとき、私は「自分が東北に向けてできる支援は何かを考えよう」と思いました。
というか私に限らず、あのときは日本全体がそう思っていたと思います。
なのに私は、上京してすぐ、自分の目の前の問題に直面してしまいました。
東北への支援金を考える一方で、入浴施設を渡り歩く自分の出費や、引越しせざるを得なくなった時の費用負担などが頭から離れませんでした。
実際、東北に寄付を入金する一方で、大家さんから自分に見舞い金が振り込まれたりして、なんとも微妙な気持ちになったのを覚えています。
自分も支援したい、でも自分も、東北とは比べ物にならないけど、それなりに大変な状況にいる。
そんな自分がとても矮小に思えて、こんなに日本が大変なときに、私は毎日一体何をやってるんだろうと思いました。
今思うともっと色々考え様・やり様があったと思うんですが、当時は冷静な判断力をやや失っていたのかもしれません。

もう一つは、自分のこの状況を、誰にもちゃんと相談できなかったことです。
これは単に、私自身のメンタル面の問題でした。
会社の人は当然、みんな通常の生活を送っています。
まして東北の被害の方がずっと深刻な中、自分の中途半端な状況を口に出すだけでも不謹慎な気がしてしまって、当時の私は「入浴するために早めに上がりたい」ということさえ言い出しにくく感じていました。
(今だったら何の遠慮もなくはっきり言えるんですが)
また、当時の私にはご近所付き合いというものが一切ありませんでした。
そのため、同じ立場の人と苦労を共有したり、解決方法を相談するということもありませんでした。
このとき感じた孤独は、入浴施設渡り歩きなどの具体的な苦労よりも、ずっと辛く苦しいものでした。

この頃は、身近な人の何気ない一言も敏感に感じ取ってしまっていました。

「なんで埋立地なんかに住んだの?」
「ほんとにマンホールあんなに浮き上がってるの?」
「液状化の動画見たよ!ホラーだね」

悪気なんて一切ないだろうに、そしていつもだったら笑ってネタにして切り返せるのに、このときばかりは「何も今そんなこと言わなくたって」と思ってしまっていました。
悪気のない誰かを憎みそうになる自分が一番怖かったです。
「ああ、当事者ってこういうことか。これは確かにしんどいな」と、このとき心底思い知りました。

そんな中途半端な状況と葛藤を抱えたまま1ヶ月が経ち、何の前触れもなく、ある日突然水が出ました。
断水して以来、毎日帰宅してすぐ蛇口をひねるのが習慣になっていました。
水が出た日、気が抜けてしまって、思わずその場にへたり込んだのを覚えています。
ずっと張り詰めていた何かから解放されたんだと思います。
連日連夜工事をしてくださっていた作業者の方達のことが思い浮かびました。
水が出るということは、当たり前のことではないんだと、心底実感した瞬間でした。

断水以来、ひと気もすっかり無くなっていた今川地区も、上下水道復旧後は、どんどん人が戻ってきました。
無人だった家にも明かりがついて、真っ暗な街の中を歩くこともなくなりました。
歪んだ道も建物も目覚ましいスピードで復旧し、5年経った今では、新浦安はすっかり元の元気な街に戻ったように見えます。
もちろん、まだ軒並みならぬ苦労が続いている方も、たくさんいらっしゃると思います。

5年経った今でも、当時の気持ちは昨日のことのように蘇ります。
「水が使えない」ただそれだけで、どんどんひと気が無くなっていく街。
真っ暗な住宅街を歩いて、一人家に帰るときの絶望感。
自分だけ取り残されたような孤独感。
水が出たときに感じた、心の底からの「ありがたい」という気持ち。
これから先も忘れたくないと、強く思います。

そして5年経った今だからこそ、明確に「こうすべきだった」と思うことがあります。
もっと人を頼って、相談するべきでした。

当事私が感じた「孤独」は、今思うととても独りよがりなものでした。
職場の同僚には「うちに泊まっていいよ」と言ってくれた人もいました。
実家の親も、比較的近くに住む親戚も、心配して声を掛けてくれました。
今思うと、気にかけてくれて、助けようとしてくれた周りの人はたくさんいました。

でも「私がもし相手の立場だったら、いくら同僚や親戚でも、何日も居候はさせられないだろう」と思い、そこで思考がストップしてしまっていました。
大した苦労をしてこなかった自分は、「人を頼る」ということが、随分勇気と根気がいることのように感じていました。
自分と状況が異なる相手に、一から説明することも面倒だと思ってしまっていました。
それなら一人でなんとかする方が楽だと思い、ある意味で逃げてしまっていました。

それに、具体的なかたちで頼らなくても、せめて悩みをもっと表に出すべきでした。
普段近所付き合いがなくたって、ちょっと行動を起こせば、相談できる場所は身近にたくさんあったはずです。
それこそネット上だってよかったかもしれません。
気持ちを吐き出して、誰かと共有できただけでも、きっとメンタルはだいぶ救われたと思います。

会社にだって、私の他にもう一人、新浦安在住の方がいました。
後で話を聞いたら、その方も苦労されていたことを知りました。
その人と話をするだけでも、もっと柔軟にいろいろな道が考えられたかもしれないのに、冷静な思考力を取り戻せたかもしれないのに、と今にして思います。

本当に、今だったらわかります。
普段、どんなに一人で生きているつもりになっていても、本当に大変な事態に遭遇してしまったら、一人ではとても耐えられないこと。
でも、ちょっと周りを見まわせば協力者は必ずいて、ほんの少しの勇気や行動でつながれたり、背中を押してもらえること。
これが実体験を経て5年経った今、私が得た教訓です。

 
長々書きましたが、私の体験はなんとも微妙で中途半端なもので、得られた教訓もごく当たり前の、ちっぽけなものだとも思います。
東日本大震災で露見した数多くの問題については、今現在も全く解決しておらず、それらに対して私自身ができる明確なことも、正直見つけられていません。
だからこれからも、知ろうとし続け、わからなければ学び続け、より良くしていくための方法を考え続けていきます。

今でも「あの日起きたことが全て夢だったらいいのに」と思います。
せめて後悔することを少なくしていきたいと思っています。

 
 
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2016-03-11 | Posted in Blog, 出発前_雑記No Comments » 
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